母の祈りと父の願い
――― ぎゃぁぁぁんっ!
久々に訪れた里乃の家で世間話に興じていたセイが外へ飛び出すと、
近所の子供らしい男の子が地べたに蹲って大泣きしていた。
その前には正一に抱えられた祐太が憤怒の形相でその子供を睨みつけている。
「何をしたのっ!」
セイの怒声にビクリと肩を震わせた祐太が、涙を必死にこらえて叫んだ。
「こんなやつ、大嫌いですっ!!」
五歳になった祐太がセイと共に里乃の家へと遊びに行き、
町方下役人の息子とケンカをした。
正一が相手をしてくれているからとセイが眼を離した隙の事だったが、
それまで機嫌良く年の近い近所の子供と遊んでいた祐太がその中の一人と
口論を始め、いきなり力一杯相手の子供を叩いたという。
騒ぎに気づいてセイと里乃が駆けつけた時には、祐太も相手の子供も
傷だらけで正一に取り押さえられていた。
その夜、帰宅した総司が話を聞いて苦笑した。
散々セイに叱られたのだろうか、頬に涙の跡を残した祐太は泣き疲れて眠っている。
「負けず嫌いなところはセイに似たんでしょうねぇ」
「総司様だって負けず嫌いじゃないですか」
自分の事は棚に上げて・・・、とセイが小さく唇を尖らせた。
「私が幼かった頃は、恥ずかしながらもっと弱虫でしたよ。姉達に甘やかされていましたから、
この子のように相手に立ち向かっていきもせず、泣いて家へと帰ったものです」
遠い遠い記憶の中で優しい母や姉達が微笑む。
総司の脳裏に懐かしい多摩の風景が甦っていた。
「・・・だったら確かに私に似ているかもしれません・・・」
ぽつりと告げたセイの言葉に現在へと戻ってきた総司が続きを促した。
「江戸にいた頃も京へ来てからも近所の子供と取っ組み合いのケンカをしては、
父上や兄上に叱られていました」
特に京へ来てからは江戸の言葉が変だと子供達にからかわれ、口の達者なセイに
やりこめられた相手が手を出し、気づけば掴み合いになっていたものだ。
「・・・ははっ、やっぱり・・・」
幼いセイが顔を真っ赤にして怒る様子を思い浮かべた総司が声を立てて笑った。
「けれど・・・」
セイが小さく呟いて、眠る祐太の髪を撫でた。
「今なら父や兄の気持ちが少しわかるような気がするんです」
じっと我が子を見つめる視線は慈愛に満ちた母のものだ。
「女子なんだから大人しくしろ、というだけではなかったのだと思います。
できる事なら綺麗なものだけを見せて、温かな愛情に包まれたままで
いさせてあげたい、と。人を傷つける事や傷つけられる事も知らず、
素直で優しい今のままで・・・と考えてくれたのかもしれません。
私もそう思います。こんな怪我などしないで欲しいと祈ってしまいます」
祐太の頬に出来ていたケンカの名残であろう擦り傷に指を這わせ、
痛ましげにセイが眉根を寄せた。
「確かに母としては、そう思うものかもしれませんね」
自分を慈しみ育んでくれた母の姿を思い出し、総司が微笑む。
周囲が祐太を甘やかすためか、殊更セイは我が子に厳しく接しているようだが
本来とても優しい女子なのだから、誰よりも情は深いはずだ。
「でも私は逆なんですよね。もっともっと痛い思いをして、切ない気持ちも感じて
思い通りにならない事もあるのだと、悔しさと共に知れば良いと思うんですよ」
日頃周囲が呆れるほど我が子に甘い男の言葉とも思えず、セイがきょとんと顔を見つめた。
「ははっ、意外ですか?」
こくりと頷く妻から眠る息子へと視線を戻す。
「今まで祐太の周囲にいたのは甘やかしてくれる大人だったり、生まれた時から
知っている正一や茂のような子供ばかりだったでしょう?
これからこの子の世界はもっと広がっていくはずなんです。そうすれば感じ方や
考えが違う子供とも接する事になる。自分の希望が通らない場合も出てくる。
自分が世界の中心ではない事を思い知るんです」
布団からはみ出している祐太の小さな手を取り、愛しげにそれを撫でながら
総司は言葉を続ける。
「意見がぶつかればケンカにもなるでしょう。男の子ですから殴り合いもします。
殴れば殴り返される事を知り、殴られれば痛い事を覚える。
同時に殴った自分の手も痛み、時には心も痛むのだと感じるでしょう。
子供のケンカ程度で命に関わるような事は、そうそうありません。
だからこそ今のうちに多くの事を体験し、柔らかな心に刻んでいって欲しいと思うんですよ」
口下手という訳ではないが、あまり自分の考えを吐露する方では無い男が珍しく饒舌だ。
祐太の寝顔を眺めながら、セイが内心で首を傾げる。
「今回のような理不尽な事で虐められる事だってあるかもしれない」
はっとセイが振り返った先では総司が穏やかに自分を見つめていた。
「ご存知・・・だったんですか? ケンカの理由を・・・」
里乃にも正一にも口止めをしていたはずだ。
総司が帰宅した時には祐太はすでに眠っていて、この子から聞いたはずも無い。
だというのに何故。
「相手の子供を連れて父親が屯所へと謝罪に来たんですよ。新選組の沖田の息子に
くだらない口論の挙げ句、怪我をさせたと震え上がっていたようです。
子供のケンカですから気にしないようにと言って帰しましたけどね」
疑問に満ちたセイの視線を静かに受け止めた夫が種明かしをした。
父親に叱り飛ばされたのだろう、しょげ返った子供が逆に痛ましく見えたのだと
総司が苦笑する。
小さな手に抱えた菓子の詰まった折り詰めから半分を取り分けて持たせてやると
周囲の大人たちから『鬼』と聞かされ、自分もそう呼んだ男が普通の優しい『人』なのだと
初めて理解したようだった。
「小さな声で『ごめんなさい』ってね。父御に言うようにと指図された
畏まった謝罪の言葉よりも、よほど気持ちが伝わってきました。
きっと次に会った時には、祐太の良い友達になる事でしょう」
素直な子供のようでしたから・・・と嬉しそうに笑う総司も父親の顔だ。
「大好きな父上を『鬼』と言われて我慢がならなかったんだろう、って正一が言ってました」
「ふふ。この小さな手で、私の名誉を守ってくれようとしたんでしょうかね」
小さな手の平をむにむにと弄っていると祐太が「うん」と寝返りをうった。
「おや、うるさがられちゃいましたね」
「起こさないでくださいね、総司様」
「はいはい」
総司とセイが顔を見合わせて笑った。
「この子はまだまだ色々な経験をするはずです。だから私達は黙って見守っていれば
良いと思うんですよね。そして傷ついてこの子が帰ってきた時に、
安心して泣ける場所であれば良い。そう思いませんか?」
「はい・・・」
「あれ? でもセイだったら『泣くぐらいなら仕返しして来い!』って叩き出しますかね?」
「そんな事はっ! ・・・・・・・・・」
言葉の途中で視線を泳がせたセイの様子に総司が声を立てて笑った。
「はははっ。やっぱり。強い母に鍛えられて、さぞ逞しく育つんでしょうね、祐太は」
「もうっ! 笑いすぎです、総司様!」
ぷぅと膨れた頬は出会った頃と少しも変わらず今でも可愛らしい。
だからこそ、総司は願うのだ。
父として。
「逞しく育ってもらいましょうね。いずれは貴女を守れるぐらいに」
今はまだ守られるばかりの小さな子供でも、時と共に成長するのだから。
その時に自分が安心してこの愛しい人を任せられるぐらい、
大きく強く優しい武士になって欲しいと思う。
「でも・・・」
何かを言いかけた総司がセイの腕を引いて自分の胸の中に納める。
「貴女はこれ以上逞しくならないでくださいね。私が守る余地が無くなってしまっては、
夫として切ないものがありますから」
「そ、総司様っ!」
「母としては強くあっても良いですけれど、妻としてはもう少しぐらい
私に甘えてくれても良いと思うんですよね?」
何が言いたいのだと腕の中から見上げてくる視線に苦笑を返す。
「『鬼』だの『人斬り』だの、今更私は傷つきませんよ?」
バツが悪そうに眼を伏せるセイの様子に総司の苦笑が濃くなった。
隊士だった頃もそうだった。
自分は確固たる信念の元に刃を振るっていたのだから、世間で何と呼ばれようと
微塵も気にしていなかったというのに、セイはいつでも憤っていた。
きっと今回もそれが原因で祐太がケンカになった事に、ひどく胸を痛めていたのだろう。
けれどそれを言えば自分が切ないだろうと、黙って隠すつもりでいたはずだ。
自分の信念を誰よりも理解してくれている人だから、祐太の怒りも自分自身の悔しさも
全て抱え込む気でいたのだとわかる。
それが少し寂しい。
だから少しだけ今夜は意地悪をしても良いはずだ。
勝手に理屈をつけた総司がセイに顔を寄せた。
「そんな風に優しくて意地っ張りな貴女も、愛しくてたまらないんですけどね」
耳朶に唇を押し付けて、直接言葉を流し込まれたセイが身体を震わせた。
あれほど野暮天だった男がいつの間に身に着けたのか、低く吐息混じりに囁いてくる。
「隠し事をされると・・・寂しいものでしょう?」
ふっ、と耳に吐息をかけられたセイが、その場所を手で押さえながら
涙目で総司を見上げた。
「総司様っ!」
祐太を起こさないように声を潜めているけれど、セイの声音には怒気が混じる。
「そんな眼をしても駄目ですよ。私の仕事に関する事以外は隠し事をしないと
約束したでしょう? 破ったのは貴女ですからね」
夫の眼の中に浮かんでいる艶めいた光にセイが頬を染めた。
「傷ついた貴女の心も私の心も、今夜のうちにしっかり癒しておきましょうね」
言葉と同時に行灯の灯りが消える。
町の子供にさえ、『鬼』と呼ばれる男の家の
ある日の小さな出来事だった。